大リーグ史上最速の投手は誰か

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大リーグ史上最速の投手は誰かは野球ファンがいつの時代も考えるテーマ

ニグロリーグ伝説のエース、サッチェル・ペイジ

現時点ではアロルディス・チャップマン、その昔はノーラン・ライアン、その前はボブ・フェラー、さらに前はウォルター・ジョンソンというのがほぼ定説となっているようです。しかし、大リーグでプレイを許されていなかった黒人選手の作っていたニグロリーグも対象にすれば、ニグロリーグの伝説の投手、サッチェル・ペイジが最速だという意見もあります。さらに、ニグロリーグでサッチェル・ペイジの一世代前に活躍したスモーキー・ジョー・ウイリアムスはサッチェル・ペイジに勝るとも劣らない投手だったようです。また、ウォルター・ジョンソンと同時期に活躍した、ウォルター・ジョンソンに勝るとも劣らない速い球を投げた投手がスモーキー・ジョー・ウッド(怪我で短命に終わった)です。スモーキー・ジョー・ウイリアムスのニックネーム、スモーキー・ジョーはここから来たようです。対戦した白人大リーガーがあまりの球の速さにこう名付けたようです。

現在は球速の測定装置があるので、正確に測定できますが、昔は現在とは違った方法で球速を測定していました。ボブ・フェラーの場合は陸軍の砲弾の速度を測る装置が使われました(1946年)。ノーラン・ライアンの場合はレーダー・ガンが使われました(1974年)。

大リーグ歴代球速ランキング

3位 アロルディス・チャップマン 105.1 MPH、 身長6′ 4″ =約193 cm、体重215 lb =約97.5 kg

2位 ボブ・フェラー 107.6 MPH、      身長6′ 0″ =約182.9 cm、体重185 lb =約83.9 kg

1位 ノーラン・ライアン 108.1 MPH、     身長6′ 2″ =約188 cm、体重195 lb =約88.5 kg

現在大リーグの球速はホームプレートから15mの距離の速度が採用されています。この距離で、レーダーガンと大リーグに現在設置されている測定装置との計測値が一致するそうです。上の計測値は、すべて、この距離での速度に換算された値です。

この3人のうち、ボブ・フェラーは身長が6フィート(183センチ)とあまり高くなく、1936年に高校2年のときに17歳で大リーグにデビューして、いきなり15三振を奪い、勝ち投手になっています。一ヶ月後には17三振を奪っています。高校生のまま大リーグで活躍して、高校の卒業式の様子が全米にラジオ中継され、センセーションを巻きおこしました。私としては一番興味深い投手です。ボブ・フェラーは高校2年生の時が球が一番速かったかも知れません。三振奪取率が11個/9回と最高だったからです。しかし、四球も最高で6.8個/9回でした。力で抑えるピッチングでした。ニックネームはRapid Robertです。rapidは速いという意味です。ボブ・フェラーが球速測定をした時(1946年、27歳の時、驚くことに試合直前に行われた)には、球速はピークを過ぎた時期だと思われます。三振奪取率がこの年8.4個/9回に落ちていたからです。

アメリカで最も人気のある野球映画フィールド・オブ・ドリームスの舞台はアイオワ州

フィールド・オブ・ドリームスはケビン・コスナー主演の1989年公開の野球映画で、数多くあるアメリカの野球映画の中でも最も人気の高い映画です。この映画はファンタジー(幻想的世界を描写)で、1919年に起きた八百長事件ブラックソックス事件の悲劇の8人(最も有名なのがホワイト・ソックスの外野手のシューレス・ジョー:生涯通産打率.356、第3位で、ベーブ・ルースは理想的なシューレス・ジョーの打ち方をコピーしたと、ルース自身が言っている)の選手が幻想のトウモロコシ畑に登場しますが、その舞台はボブ・フェラーの出身地と同じくアイオワ州です。

映画の主人公は球場を作れば奴が来るという啓示を受け、トウモロコシ畑を球場に変えます。その球場のモデルが実はボブ・フェラーの父親(元野球選手)が、ボブ・フェラーのためにトウモロコシ畑を切り開いて作った野球場とそっくりです。ボブ・フェラーが12歳の時のことです。野球場を作れば息子が将来大リーガーになれると信じたのでしょう。球場にはスタンド、スコアボードも作り、自分の野球チームも作り、地元のチームと対戦して腕を磨き、夢が実現したのです。周囲の人は、当時、父親のことを気が狂ったと言ったそうです。まさに夢の球場(フィールズ・オブ・ドリーム)だったのです。

ボブ・フェラーが影響を受けた投手は誰なのか?

1934ワールドシリーズ優勝のセントルイス・カージナルスのエース、ディジー・ディーン

ボブ・フェラーは元野球選手の父親と毎日のようにキャッチ・ボールを行い、野球の指導を受けたのは確かですが、ボブ・フェラーが17歳のとき、1934年のワールド・シリーズを制したナショナルリーグのセントルイス・カージナルス(チームのニックネームはガスハウス・ギャング:ユニフォームは薄汚れ、振る舞いが行儀悪く破天荒で、ユニークなためで、ニューヨークにガスハウス・ギャングというギャングも当時存在したことも命名の理由、当時のニューヨークのエネルギー源はガスで、ガスハウスという汚れた場所でガスの製造が行われていて、チームは薄汚れたギャングのようでまさにぴったりのニックネームである)とのエキシビション試合で、9人対戦したうち8人から三振を奪っています。このカージナルスのエースがディジー・ディーン(この時、24歳、この年最多勝30勝7敗でMVP獲得)で、ボブ・フェラーの投げ方に似ています。ボブ・フェラーはこの年、サッチェル・ページとも対戦しています。ボブ・フェラー、ディジー・ディーン、サッチェル・ペイジ、この3人は互いに関わりが深く、野球シーズン終了後に、バーン・ストーミング(チームを組織して地方の市、町を巡業して、白人のオールスターチームとと黒人のオールスターチームとの間でエキシビション形式で野球を行っていた)をしていました。ディジー・ディーン・オールスターズ対サッチェル・ペイジ・オールスターズという形式で対戦していました。1946年にはボブ・フェラー・オールスターズ対サッチェル・ペイジ・オールスターズとの間で、対戦しました。このツアーでは飛行機で各地を巡業し、一ヶ月間にわたって試合が行われ、黒人が大リーグで通用するという認識が広まり、黒人が大リーグで正式にプレイできるようになった大きな要因となりました。ちなみに、黒人大リーガー第一号はジャッキー・ロビンソン(ドジャース)です。

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サッチェル・ペイジ59歳当時の映像

その他、ディジー・ディーン、ボブ・フェラー等の映像が見れます。

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上に挙げた3人はお互いに交友があり、お互いに大きな影響を受け合った間柄でした。ディジー・ディーンはナショナル・リーグ最後の30勝投手(1934年に30勝7敗、翌年は28勝12敗)で、現在も記録として残っています。ディジー・ディーンはコントロールも良い(サッチェル・ペイジもコントロールが良いことで有名でした)投手で、大変興味を惹かれます。

また、サッチェル・ペイジとボブ・フェラーは1948年にインディアンスでチーム・メート同士になって、ワールドシリーズを制覇しています。

サッチェル・ペイジは投手として長寿命で、1948年に42歳という高齢(実際の年齢はよくわかっていないらしい)で大リーグにデビュー(黒人投手としては初)し,一旦大リーグを離れたあと、59歳で1試合だけ大リーグで登板しています。そのときの映像を以下に紹介します。

1948年のワールド・シリーズで登板(42歳当時)

1965年カンザス・シティ・ロイヤルズと1試合だけ契約、3イニングを1安打1三振、無失点に抑える(推定59歳当時)

ディジー・ディーン(4年連続三振王)の投球フォーム

ボブ・フェラー(三振王7回、19歳で18三振(当時の大リーグ記録)を奪った時の映像)

 

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